二宮神社の歴史
大君のしめぬる國の外までも道にぞなびく御世の閑けさ

二宮神社 (神戸)| にのみや |Ninomiya Shrine 歴史

二宮神社 本殿
二宮神社の創立時期はあまりにも古く定かではありませんが、摂政元年(西暦201年)に神功皇后が生田神社を建立する際にお参りになられたと伝えられています。
また、貞観年中(西暦859~877年)に生田神社のある砂山(いさごやま・新神戸駅の裏山)が大水害にみまわれ、現在の地に御社を築く間、二宮神社で神さまをお祀りしたと伝えられ、境内には御神体を奉安したとされる「御幸石」が現存します。
これらは伝承ではありますが、年、二宮神社の旧神域に隣接する二宮小学校跡地より、飛鳥時代(西暦600年頃)の鍛冶工房跡と祭祀用の土偶などが発掘され、少なくとも1400年前には祭祀が行われていたことが証明されました。
時代は降って、明治時代には、旧葺合区内にある神社のすべてが二宮神社に合祀され、総鎮守となりましたが、現在では、地域の発展とともに再び神社が建立され、神々も元の神社へとお遷りになられました。
また、江戸時代後期頃から昭和初期にかけては、宮前に多くの茶屋が建ち並び、昼夜問わず笛や太鼓の音が鳴り響いていました。

明治・大正・昭和編

【明治】

明治時代はじめの二宮神社の周辺は、まだ、田んぼや畑が多く残っていました。
そこでは、酒米や大根、カブラ、水菜などを作り、果物では、すももや梅、柿などを作っていました。
また、生田川には多くの水車があり、水車の仕掛けによって米を粉にし、そうめんを作っていました。
そのころの神社の門前町には、多くの飲食店が建ち並び、毎日、朝から晩まで、多くの人でにぎわっていました。
しかし、明治の中ごろには、異常気象により作物が取れず、大変苦しい時期を過ごしました。
そして明治の終わりには、道路や鉄道の整備も進み、神戸市の中心地として、町並みもさらにととのえられ、仕事も農業から商業へと移り変わっていきました。

【大正】

 大正になってからは、映画館や喫茶店などが立ち並び、ハイカラな神戸の姿がととのってきました。
 このころ、東京や横浜では、関東大震災により大きな被害が発生しました。
 横浜とともに大きな港を持つ神戸では、多くの被災した人々を受け入れたそうです。
 

【昭和】

 昭和にはいり日本は、アメリカやイギリスなどの大国と戦争を行いました。
 この戦争によって、世界中で多くの人々が亡くなりました。
 昭和20年3月の神戸大空襲では、神戸の町々に爆弾が雨のように降ってきました。
 神社の境内にあるケヤキのご神木(シンボク)の上のほうが黒くこげているのは、その時に焼夷弾(ショウイダン)が2発あたったためです。
 また、正面の鳥居には、機関銃で打った弾の跡が見られます。
 こんな悲しい出来事の無いよう、みんなで平和のありがたさを考えてみてください。